「特別に訓練されたカブトムシ」、この言葉を研究室のテーマとして掲げたいと思います。ここで、各単語の通常の意味は、ひとつに決まりそうに思われます。「特別に」とは、通常の仕方ではない何か、「訓練された」は、或るスキルを繰り返し習熟してきたこと、「カブトムシ」は日本にいる大型の甲虫、というように。しかし、これらの単語が一つにまとめられ、「特別に訓練されたカブトムシ」と言われた刹那、そこには、なにか禍々しく、胡散臭く、でも妙に愛嬌のある、特別の存在として立ち上がってくるものがある。このような存在の立ち上がり、それは、広義の文学であり、アートであり、そして、生命なのではないでしょうか。
 各単語の通常の意味のほかに、他でも在り得た・在り得る、そういった意味が隠れている。一つ一つの単語を見る限り、隠れた意味は全く見えてこない。ところが、単語が絶妙の配列をされたとき、「他でも在り得た・得る」意味が重なり合い、共鳴し、特定の存在者が立ち上がってくる。このことが、「特別に訓練されたカブトムシ」の意味するところです。
 表現者とは、表現したいもの自体を直接、指し示し、コントロールし、配置する者ではありません。表現したいものを迂回し、または、曖昧にしか把握せず、いやもしかすると表現したいもの自体が不在なまま、言葉や、物体、画材、音や身体を配置し、飼いならし、他でも在り得た・在り得る意味を重ね、想定外の存在を立ち上げる術に長けた者のことなのです。
 言葉、物、画材、音、身体-それだけではありません。これらの「もの」は、様々なマテリアル、計算資源、生化学物質にさえ置き換えられ、表現は、拡張されます。すなわち、表現者とは、その実体を不問にしたまま、想定外の存在を立ち上げ続け、変容しつつ個物を主張するなにものかのことなのです。それは、生命そのものです。

 わたしたちの研究室では、生物における表現を立ち上げます。それは、通常では現れない、想定外の振る舞いを、ちょっとした環境の変化において立ち上げる実験であり、モデルであり、理論です。それは、錯視図形環境に置かれた真性粘菌であり、回転する大地に置かれたアリであり、忌避する水辺に直面した兵隊ガニであり、プラスティックの板を背負わされたヤドカリです。また時間を非同期に与えられたセルオートマトンであり、因果律の反転を許容する群れのモデルであり、身体の所有感を剥奪する実験環境下、世界に対する能動性・受動を反転した実験環境下に置かれた、わたしの身体や、わたしの感覚なのです。あなたにおける「特別に訓練されたカブトムシ」を立ち上げたい方、お越しください。待っていますよ。


 

1989〜1999



1999〜2009

 

2009〜now